刺し子と発達障害の診断

発達障害, 雑記

もう15年ほど前に、2年ほど身体障害者の介助の仕事をしていたことがありました。地域で一人暮らしをしている方たちの支援のお仕事です。昨日、そのとき担当していた方の一人が亡くなったとの訃報を受けて、今日、お別れをしてきました。

私よりずっと年上の方でしたが、私が介助の仕事を辞めた後、元気にあちこち海外旅行にも行かれていたと聞きました。私が担当していた頃は、施設から出てまだそれほど経っていない頃だったので、自立生活に慣れるまで大変だったのではないかと思うのだけれど、海外旅行を楽しむほどになるとは。人間、強くなれるし、どんな可能性もある。

辞めるときにいただいた刺し子の作品。まだ大切にとってあります。不自由な手でチクチクと少しずつ仕上げていってくれたのでしょう。

今日は、ほかに担当していた人にも久しぶりに会えました。元気そうで嬉しかった。

私が自分の発達障害に気づいたのは、ちょうどその頃。新聞記事を読んだのがきっかけでした(診断経緯はこちら)。

「発達障害」があると言うと、「障害」という言葉に拒否反応を示す人が多くいます。「障害」じゃなくて「個性」でいいんじゃない、というわけです。でも、その言葉の裏にある「障害=悪いもの」という、うっすらとした偏見や差別には気づいていないことが多いようです。

現在の診断基準では「発達障害」の診断はつかないかもしれないし、特に配慮を必要とするわけでもないので、わざわざ言うことはめったになくなりました。

でも、私が当時、診断を受けたときに、「障害」という言葉にショックを受けなかったのは、多くの障害者に実際に接してきたからだと思います。「障害」があるということは、大変ではあるけれど、必ずしも不幸なわけでも、憐れむべき存在なわけでもなく、普通に喜び、普通に悩む、健常な人間と何ら変わりはしないのだと肌身で知っていたからです。

そして、その頃から試行錯誤して15年経った今ではわかります。身体障害者だって、精一杯、人生を謳歌できるのと同様に、発達障害者だって謳歌できるのです。まずは、身体面の問題をできるだけ解消すること。そして、定型発達者仕様になっている世の中で程よく生きられる自分なりの「落としどころ」を見つけること。この「落としどころ」は随時変えていけばいいのです。

以前の私のとりあえずの落としどころは、「変わっているけど、悪い人じゃない」という立ち位置でした。人気者になれなくたって、いいわけです。でも、自分は曲げたくないかな、と。そして、それを魅力に感じてくれる人がいてくれたら、嬉しいかな。

「人から嫌われたくない」「人に好かれたい」と思うことは普通のことです。でも、万人に好かれるのは無理なこと。この願いを取っ払ってしまえば、結構楽に生きられる。そしてそれが、不完全な自分を受け入れるということでもあるのです。