未来が不安なのは当たり前

こころ

未来が見通せなくて不安になることは誰にでもあります。どの道を選ぼうか迷うこともあります。そして、その選択に不安を覚えることも。

アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』シリーズ2作目の『こわれた腕環』では、大巫女の生まれ変わりとして子どもの頃から墓所で育ってきたテナーが、ゲドの助けを借りでその世界から抜け出します。

彼女は、今まで生きてきた世界にこれまで通りに留まるか、新しい世界へと足を踏み出すか、決断を迫られ、外の世界に出ていくことを自ら選びました。

ところが、自由になった喜びも束の間、墓所の世界しか知らないテナーは、失ったものに想いを馳せ、未知の世界にだんだん不安になります。

次のような一節があります。
「彼女が今知り始めていたのは、自由の重さであった。自由は、それをになおうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して、気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。坂道をのぼった先に光があることはわかっていても、重い荷を負った旅人は、ついにその坂道をのぼりきれずに終わるかもしれない。」

誰しも自由を望みますが、実際のところ、選択できる自由には選択したことの責任もついてきます。自ら選び取ったのだから、たとえ上手くいかなくても、誰のせいにもできません。無意識のうちにそれをわかっていて、自由に道を選ばないこともよくあるのだと思います。自分以外の誰か、何かのせいにしたほうが楽だから。

だから、未来が不安なのは当たり前なことなのです。

神話学者のジョーゼフ・キャンベルの言葉に次のようなものがあるそうです(ユングの言葉という説も)。

If the path before you is clear, you’re probably on someone else’s.
(目の前の道がはっきりしているなら、それはたぶん他の誰かの道だろう。)

「これだ!」という道を、ひたすらまっすぐ進むことを望み、迷いの多い自分を情けないように思いがちですが、それでも歩みを進めていれば、正解なのかもしれません。

トートタロットの「#11 Lust」は、「これだ!」と思ったものに情熱的に打ち込むというカードですが、高く掲げた聖杯の光で照らしています。遠い先まで見通しはもてなくても、光で辺りを照らしながら進んで行けばいいわけです。

自ら選び取ったことは、誰のせいにもできませんが、坂道を上りきれなかったとしても、案外後悔はしないものですよ。