丸でも三角でもない多面的な自分を生きる
昔、熱心に瞑想をしていた時期があって、その頃は丸い人間だと思われることがよくありました。瞑想歴は長い方だったので、同じ瞑想仲間からは「善人」であることを求められていたような気がしていました。「この瞑想法をやっていれば善い人間になれる」という証拠のようなものを瞑想歴の長い人間に求めたかったのでしょう。
でも残念ながら、私はごく普通の人間で、瞑想をすることで表に出すことは少なくなったものの、怒ることもあれば嫉妬することもあります。そうした負の部分を自分の中に押し込めておくのが苦しくなって、箱庭療法を受けに行ったことがありました。そんな負の部分を箱庭をつくることで吐き出したかったのです。
ところが、箱庭療法をやってくれた心理療法士の人も、私がつくった箱庭にきれいなものばかりを見出したがりました。私はだんだん、思うように箱庭がつくれなくなり、やめてしまいました。
瞑想をやる以前の私はかなり尖っていたので、その時期の私しか知らない人から見ると、そんな丸い私なんて「え、嘘でしょ」と思うでしょう。
でもどちらも本当の私だったりします。ある人は一方向から見て「あなたは丸い」と言います。別の人は別の方向から見て「あなたは尖っている、三角だ」と言います。でも実は、私は円錐だったりするのです。
そんなふうに、人間って多面的なものなのに、人は一方向だけから見て、「この人はこういう人」と決めつけたがります。
また、特定の相手やグループと一緒にいると、いつの間にか「キャラ」が決まってしまうこともあります。「しっかり者キャラ」「おバカキャラ」だとか。あるいは、母としての自分、娘としての自分、妻としての自分だとか。
「個人」は英語で「individual」と言いますが、作家の平野啓一郎氏は人間は「individual(in dividual=分けられないもの)」ではなく、一緒にいる相手や状況によってその時々で「分人(dividual)」を生きていて、その寄せ集めに過ぎないと言っています。
ホロスコープを見ていると、それがよくわかります。丸でも三角でもない、支離滅裂な自分(笑)がちゃんとそこに描き出されているのです。自分のどういった側面をまだ自分は生きていないのか、あるいは無視してしまっているのか。人間って多面的。そのことをよく教えてくれるのがホロスコープです。
分人論、面白いですよ。読んだのはだいぶ前なので、久々に読み直したくなってきました。
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